2012年3月14日水曜日

授業公開

今日の授業公開で使った、絵を見て説明するペアワークで使用した1枚。
今日は本校の研究指定の関係で、大学の先生や行政の方々に授業を公開する日だった。2月末で学年末テストも終了し、現在は教科担任が独自の投げ込み教材で授業を行っているところなので、それでも数回やっている絵を相手に説明して、相手が絵を描くペア活動と、6コマ漫画のリテル活動を行った。後者のリテル活動では。私が手順を間違ってしまい、ペアの間でinformation gapを発生させたあとにペアで活動させればよかったのに、その前に私が生徒全員に自分のリテル見せてしまい、ペアでやるころにはペアの間にあったinformation gapが解消されてしまった、という失態を犯してしまった。う~ん、それで笑いが取れたのはよかったが、手順としては完全に間違っただけに惜しいことをしてしまった。生徒の英語習得のチャンスを奪ってしまったのかと思うと心が痛い。少し気楽に構えすぎただろうか。やはりもう少し準備すべきだった…。

それにしても、生徒がコミュニケーションをしているのを見るのは楽しいものだ。そしていつしか英語を、単なる「ツール」としてではなく、そこに感情を乗せて相手に伝え、自分を再発見するプロセスを通して、英語を「ツール」ではなく、「自分の一部」として感じるように、生徒にはなってほしい。教科調査官の直山木綿子氏がどこかで、「私は英語をツールと呼ぶのは嫌いだ」という旨の発言をされていたが、全く同感だ。単なるツールとして使いこなせるほど言語は甘くない。人類の英知の結晶である言語が、ビジネスライクに、単なるツールとして使える、などという思い込みは産業界のご都合主義だろう。言語を学ぶことは、思考様式そのものの変容を自分に迫ることにつながる。「世界の切り方・とらえ方」が変わってしまう、ということだからだ。それでも英語を学ぶ、という行為を生徒にさせている我々の立場を考えなくてはならないだろう。それでもそれを行う目的は、やはりその英語を使って泣いたり笑ったりができること、第2言語の習得を通して自分を改めて発見し、相手とつながりをつくることができる事実を知ることなのだろう。「外部」にあった言語がいつしか自分の「内部」となっているプロセスを通して、他者を受け入れることが自分を変容させることと同義であることを感じられるような、そのような広義の「コミュニケーション」を体感することなのだろう。教科の担当として、「英語力」の伸長はそれはもちろん大切である。しかし「教育」に関わるものとして、そういった到達点をつくって、そこに向かって授業をつくる必要があるなと、感じた1日であった。

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