2010年10月21日木曜日

変革されていく学校の中で

 私がこの学校に来て7年目になる。その間この学校は普通クラス6間口だった3年生が卒業後、5間口完成となり現在に至る。その間、特進クラスが5クラス中1クラス作られ、進路別学級編成となり、昨年度からは単位制となった。そしてまた数年後から始まる新学習指導要領にあわせたカリキュラム編成の準備をしている。
 確かにここ数年で大きく学校は変わってきた。しかし「変化が激しくて何が良くて何が悪いのかもわからなくなってきた」「だからもう変える必要はない」という意見をこのところ聞く。私はそうは思わない。なぜなら明らかにこの学校は「良く」なってきているからだ。赴任した当初は授業の成立もおぼつかないような学校だった。私の指導力不足もあったのだろうが、生徒が教員の指導に乗っていない学校で、授業不成立は日常化していた。何より集会のあり方が異常に感じられた。ザワザワしたまま、生徒が落ち着かないうちに始まる集会。先生方の押さえが効かず、一人ひとりのマンパワーがある先生のみが生徒を黙らせているような学校だった。
 今日、3時間授業をしているときにふとそんなことを思ったのだった。タスクをこなし、さかんにペアワークをして、眠る生徒がほぼ皆無になった教室。入ってくる生徒の気質がおとなしくまじめになったことは事実。しかしあきらかに学校全体として「まとも」になっていることは明らか。その部分をこの学校はもっと肯定的に評価すべきだと思う。別に傷をなめあう必要はないが、次にさらに改善していくためにも、内部の人間が自分たちのこれまでの歩みを認めることは必要だろう。
 そしてその原因は、特進クラスの新設、単位制への転換というシステムを変えることと、それを好機と捉えた職員集団の積極的な歩みによるだろう。「本来的な教育の姿が見えない」「変化についていけず、何が良いのかわからない」「いっそ特進もやめたほうがいいのでは」「単位制の意味がわからない」。ラディカルな意見は本質的でときにはそういった視点で学校を大局的に見ることは必要だろうが、大真面目に聞かされるそんなあまりにナイーブな意見を聞いていると、気が滅入ってくるのは私だけだろうか。
 私たちは職員だ。戦略的にシステムに意味を見出しながら、この学校を建設的によくしていく責務がある。意味がわからないのは、意味を見出していないからだ。意味を見出すのが私たち内部の人間の仕事だろう。

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